ADHDと診断されたとき、私は大学受験に追われる高校3年生でした。ずっと「頑張りさえすれば何だってできるようになる」と信じて努力してきた私にとって、その診断は思っていた以上に大きな衝撃でした。
「私は普通じゃないんだ」
「努力だけでは超えられない壁があるんだ」
そんな衝撃と葛藤の中で、私は自分なりに対策を模索しながら大学生活を送ることになりました。
■ ADHD診断を受けた高校時代
高校3年生の秋、私は毎日のようにケアレスミスを繰り返し、勉強の効率が上がらないことに悩んでいました。
なぜ私は忘れ物をこんなにしてしまうのか、なぜ世の中はこんなに大変なことばかりなのか、みんなが容易そうに行っていることがどうしてこうも大変なのか、どうして板書が遅いのか、なぜ計算がこんなにも苦手なのか。
日々の疑問を私は手持ちのノートPCに打ち込み続けました。そこで、同じように困難を抱える人たちがいることを知ります。
両親に自分は発達障害じゃないかと思うと、泣きながら告白した時のことをよく覚えています。
両親は私が、子供時代のめちゃくちゃな癇癪や、夜の明かりを嫌がっていたことや、あまりにもかたくななこだわりが多かったことを、発達障害の特徴だと説明しても、決して認めてくれることはありませんでした。
それでも、泣いてどうしても受診したいという私の願いを聞き入れる形で心療内科を受診し、医師からこう告げられます。
「あなたはADHD(注意欠如・多動症)の傾向があります」
診断書を手にした帰り道、「自分次第でなんでもできる」という幻想の崩壊で心が重く沈んだのを覚えています。
しかし同時に、理由がわかったことで少しホッとしたのも事実でした。
■ 大学生になっても続く葛藤
大学に入学してからも、私は忘れ物や遅刻、ミスの多さに苦しみました。授業のスケジュール管理、課題の締切、友人関係…どれも簡単にはいきません。
それでも「何とかなる」と信じて工夫を重ねました。
- 毎日手帳に持ち物を書き出す
- モーニングルーティンを作る
- 周囲に助けを求める
少しずつ日常をコントロールできるようになった一方で、「もっと楽に生きたい」と感じ始めたのもこの頃です。
■ ADHDの特性は欠点だけではない
ADHDの特性は確かに生きづらさを伴いますが、悪いことばかりではありませんでした。
私は興味のある分野では深く集中でき、新しいアイデアを次々に思いつくことができました。それは周りの友人が驚くほどでした。
「君の発想力はすごいよ」
「そんな考え方、私にはなかった」
そんな言葉をかけられるたび、「これも私の個性なのかもしれない」と少しずつ思えるようになりました。
■ これからの目標
私が見つけた答えは、「自分の特性に合った生き方を探す」ということです。
完璧を目指さなくていい。
得意なことを伸ばして、苦手なことはサポートを受ける。
そのために必要なら合理的配慮を求める勇気も持つ。
そうやって一歩ずつ前に進もうと思うことができはじめたのでした。

